幼稚園ぐらいまでは絵を描くことと、虫取りに行くのが大好きで、それ以外のことで興味があったのは、志村けんさんぐらい。
カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ、ドリフの大爆笑、志村けんのだいじょうぶだぁ、は毎週欠かさずみるほどに、志村けんさんが大好きでした。
将来こんな大人になりたい。
そんなことをボンヤリ考えていました。
他のテレビ番組には一切興味がなく、みてもアニメぐらい。
音楽番組はもちろん、バラエティ番組とかにも全然興味を示さず、まわりの友達と話がまったくかみ合わない、少し変わった子だったようです。
小学校に上がってもそのへんは一切変わらず、相変わらず虫とか魚を追いかけたり、絵を描いたり、ひとり遊びが好きな子どもでした。
おかげで(?)まわりの友達からは「昆虫博士」と呼ばれるほど虫の知識がついていました。
相変わらず、友達に誘われても適当な理由をつけて断っていましたが、ずっと断っていたわけではなく、たまに一緒に遊んだりしていました。
すごくマイペースで、自由気ままに、いや、むしろ傍若無人とも言えるような生き様でした。
それでもそんな僕を快く受け入れてくれて、しょっちゅう遊びに誘ってくれる友達がたくさんいました。
この頃は、生きていく不安なんて微塵も感じていなくて、むしろすごい安心感がありました。
友達にも恵まれ、ひとり遊びもできる。
僕はこの町が大好きだったのです。
ところが。
小学2年生の終わりごろに転機がおとずれます。
母親がある日突然、なんだかテンション高めのご様子。
話を聞くと、どうやら隣の市、「伊丹市」の市営住宅かなんかに応募して、見事当選したとのこと。
子どもたち(妹2人)も大きくなってきて、この狭い家では何かと不便だからと引越しを企んでいた模様です。
それ自体はね、非常に素晴らしいことです。
が。
伊丹市と宝塚市は隣同士といえど、幼い僕にとってはすごく遠い、完全に未知の世界です。
今までの楽しい生活がすべてなきものになるとは、この時の僕は想像だにしていませんでした。
引越し当日の日。
最後の登校日です。
学校をお昼ぐらいで終わって、そこから新居に向かうというスケジュールでした。
親が車で迎えに来てくれたのですが、その時にクラスのみんながわざわざ校門のところまで見送りに来てくれました。
その時の光景は今でも鮮明に覚えています。
すごく温かい人たちで、いい学校だったなぁと。
今これを書きながら泣きそうです。
たどり着きました、伊丹市。
引っ越した先は団地の4階で、エレベーターがついておらず、なかなかハードな生活の始まりです。
近くにはできたばっかりの昆虫館があったり、瑞ヶ池という大きな池があったりと、僕の大切な「自然と戯れる」が満喫できそうなことは確認がとれました。
伊丹市での新生活も、宝塚と同じように楽しいものになりそうだと思った矢先、ある重大な問題が発覚しました。
僕は「転校生」になったのです。
新しい学校に単身乗り込まなければなりません。
知ってる友達、先生が誰もいない完全なアウェイの地に。
転校初日。
母親も一緒に来てくれて、不安は少しだけ和らぎました。
学校に着いて、担任の先生とはじめましてのごあいさつ。すごく明るくて恰幅のいい、女の先生で、不安がさらに和らいだのを覚えています。
母親と先生が何か少し話して、いよいよクラスのみんなが待つ教室へ。
この瞬間はホントにたまらなく不安で、逃げ出したくなってました。
前の学校の時、積極的に手をあげたりしてみんなの前でしゃべったりするのも、何もこわがったりするようなヤツではなかったのですが、それはみんな知ってる人間だから、だったんですね。
その安心感があったからこそ、人前でしゃべるのも全然平気だった。
でも今は完全にアウェイ。どんなヤツがいるのかも全然わからない状況。
教室の前に着いて扉を開けようとしたその時、先生が先にダーッと入っていって、手を叩きながらクラスのみんなに呼びかけました。
「ちょっとみんな!転校生!転校生!」
喜べテメェら!
とでも言わんばかりの雰囲気を醸し出して、盛り上げようとしてくれて、それに応えるように教室中に響いた歓喜の声。
この瞬間、僕の不安は一瞬で消し飛びました。
みんな優しく迎え入れてくれて、その日はみんなで校内を案内してくれて、とても自然にみんなの輪の中に入ることができました。
あの時。
教室に入るのを不安がっていた僕を元気づけるために(…かどうかはわからないけど)クラスのみんなを盛り上げてくれた担任の先生のあの行動は、今でも脳裏にしっかり焼き付いていて、たぶん忘れることはないだろうなと。
ほんの2ヶ月ぐらいの付き合いなのに、こんなにも記憶に残ってるのってすごいことだなと思います。
先生の名前何やったっけな。
その3へ続く
⇒その3
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